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2015年12月

2015年12月24日 (木)

明治時代の固着した民法を「合憲」とする中世最高裁判決!


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12月16日、最高裁で「夫婦別姓」を認めない判決が言い渡された。規定が合憲と判断された。そのうち、女性裁判官3人を含む5人が違
憲とした。

夫婦別姓認めない規定 合憲判断も5人が反対意見

12月16日 17時15分

「明治時代から続く夫婦別姓を認めない民法の規定について、最高裁判
所大法廷は、「夫婦が同じ名字にする制度は社会に定着してきたもので、家族の呼称を1つにするのは合理性がある」などとして、憲法に違反しないという初めての判断を示しました。一方、裁判官15人のうち、女性全員を含む裁判官5人が「憲法に違反する」という反対意見を述べました。」(NHK記事引用終わり)

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■戦前、家督相続人に母はなった! 戦後家督制度廃止! 誰が責任取るの?

  結婚は個人の問題なのに、なぜ、国家が名前すら自由に選択させないのか、世帯単位を強要するのかということだ。家長制度は、戦前まで確実に存在した。家督の相続人は選定しなくてはならず、そのことで私の母などは、人生を狂わされてきたという事例もある。すなわち、叔母が祖父の許可できない男と結婚したため、祖父は長女を家督人から排除した。そのため、三女の母が家督相続人となった。結果、そういう条件の男性との婚姻をすべく人生が限定された。


 婚姻の自由が憲法でうたわれているのなら、なぜ、女性はそれぞれの自由な結婚ができないのか…ある人は自分の旧姓を名乗りたい。ある人は、旧姓をミドルネームで入れたい。また、ある人は、夫の名前にしたい。婚姻の自由というのなら、女性が抱く希望をなぜ国家が規定するのだろうか。それぞれのささやかな希望を叶えてくれたっていいではないか・・・戦後、やっと女たちは婚姻の自由を得ることができた・・・それだって、父を殺され、夫を奪われ血の涙の流した後、やっと得られた自由であったはずなのに、その大切な自由を、明治時代という黴がはえそうな民法に規定され、戦後憲法の趣旨を汲んだ自由であるはずの婚姻制度になっていないのが現実ではないか。民法には、古色蒼然とした家長制度の嫁姑舅の臭いがする制度を、女たちは押し付けられているではないか。


  戦後70年も経って何も変わらないのではなくて、権力の中枢が秩序のために変わらせなかったのだ。おそらく、それは、まさに家長制度そのものだ。民法とは何ぞや?  国民の身近な暮らしの法律のことであろう。女を自由にしないこの国の風土そのものだ。国家権力に忠実な女を養成するために、民の暮らしの首根っこを押さえつけた。戦後、女と靴下は強くなったと言われながら、この国では流れに従わない女たちは、概ね排斥される。



■結婚という個人の問題を法律で縛る僭越国家!



 何度も言いたい。結婚とは、個人的なもので国家や法律が制約するものではなかろう。「それが日本の良さだ。和を尊び人と抗わない。家族は一つ、絆が大事」と言う人もいるだろう。でも、その価値観は、それぞれの人によって異なるだろう。結婚は、国家の価値観に制約される必要はないはずである。個人が選びたい名前を選び、自分が理想とする結婚の形を実現するのは個人の自由であり尊厳のはず・・・。


  一応名前の選択はできると言っても、96%が夫名となっている以上、実態は妻たちが嬉々として、この制度を受け入れていると思うだろうか。私も23才で結婚し、27才で離婚し、その後は、事実婚めいた生活を15年程送った。私も吸収合併みたいな家制度そのもののような結婚というものに、抵抗感を持っていた。しかし、結婚というテリトリィ制度を逆利用した感もある。つまり、競争相手が多そうな夫を私物化する宣言として結婚を利用した。かわいそうに、夫はまだ22歳の学生だった。しかし、理不尽な嫁という封建的実態に遭遇するに至って、自由であることは、結婚という形態にはないと理解し、整然と離婚した。


 別に、夫を嫌っていたわけでもないので、今までのように生活を共にした。親にも知らせなかった。私は結婚後もずっと旧姓を名乗っていた。離婚して旧姓が本当に自分の名前になったけれど、特別な感慨もなかった。私にとっては、姓名というのは、どっちでもよかった。ただ、法律で名前に制御されることが不本意で気にいらなかった。そして、日本の民法は、自民党的体制と天皇制を反映した秩序づくりが、ぴったりと反映されていることを感じる法律だった。私は、ここに胡散臭いものを感じ、反発した。それと、嫁という立場に居心地がいいと感じたことはなかった。どちみち、家庭を作る気もなかったし、私はそこに達成感がないのが一番嫌だった。


 そして、最高裁がこうした判断をしたことにおいて、日本の最高裁は秩序作りに加担をしていると実感した。最高裁も中世暗黒時代。そして、政治も暗黒時代。そりゃ、内閣が任命した最高裁判事だもの。都合がいい輩をすえるに決まっているとは思っていたが、まさに決定的だった。それとともに、私の懐疑心も決定的になった。今の政治状況を考えれば、もしかしたら、民法をここまで変えずに明治時代を温存したのは、今後、政権は、遅くないうちに憲法改正まで持っていく布石なのだろうと思うに至った。この民法こそが、権力の中枢が絶対的に押さえておきたかったことなのだろうと・・・。



  女性の機会均等、女性の力、女性の尊重と言いながら、いかに、女たちを権力の元に屈服させるかを筋書きを持って考えているかが垣間見えてきた。口で甘いことを言いながら、女を自由にさせず屈服させた状態にしておくのかという魂胆が、70年も民法を改正しない理屈だろう。この民法へ日本国憲法も変更していく意図ではないだろうか。そのために、明治の残滓が残っている民法を、決して変えようとしなかったのではないかとまで、私は推測している。そして、私は、そんな風にしか女を制御できない権力者と言われる情けない男たちの存在を軽蔑している。


  国連から勧告されても、日本政府は無視している。日本は日本なとという訳の分からぬ理屈を言って、国民をマインドコントロールしている。支配の鉄則・・それは女を自由にさせないことだ。女を隷属させることだ。戦前の慰安婦のことだってそう・・どうやら、同じ根から派生しているようだ。 今日は、この位にしておこう。私が結婚にまつわるタブーとどう闘ってきたか、また、「事実婚」をしている方の法的差別についても、折々触れていきたい。現在の民法は、この明治時代を受け入れたものでない限り、冷遇されそして排除される。それはあたかも、人参をぶら下げ、自分たちのテリトリィに誘導するための罠にも見える。そして、やがて、日本国憲法もその泥海に引きずり込まれるだろう。



  自由は、いつだってアナーキーなもの・・・あんたたちが作る安っぽい法律なんかで規制できるものではないのだ。  法律なんて、所詮、体制と取り引きした狐が、虎の威を借りながら本当は心臓をバクバクさせて守っているものなのだ。親の代からの七光りで光ってもいないものを、秘書にライトまで持たせ光らせているだけの輩に、何が分かるか。無能な世襲議員が、お金をばらまき維持している権力・・何が機会均等? 女性が輝く社会? 冗談じゃないでしょう。カバンと看板、そして地盤を同じスタートラインにしてから、偉そうにしてもらいたいものであるせめて、政治資金から「なっちゃん」と「トローチ」は買わないように・・・また、愛人にも、政治資金からお手当てなど出さないように・・・。それに、供託金も300万円なんて世界一高いものは、廃止するように・・・それも、始まりはそもそも社会主義党議員が増えるのを抑えるために作った制度だったようで、そうウィキペディアに出ていた。道理でおかしいと思ったら、やっぱり、からくりは姑息な自民党的政策だったようだ。


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(あとがき)

☆ブログ更新しました。みずほ銀行が2000万円の献金したとか・・・税金使って立ち直ったのは、どこの誰だったでしょうか。金権主義をやめようということで政党助成金を国民が負担しているんではなかった? 献金をそんなにもらうなら、政党助成金は止めるとかすべきでしょう。、いつでも、この国は因果の因を忘れて、ズルズルになる特質を持ってるようです。でも、本末転倒ですよね。

でも・・この政党助成金って、あの剛腕と言われた小沢一郎氏が導入した制度ではなかったのでしょうか。マネーロンダリングはどうなったの? みんな、何だかなあという人ばかり……。こんな人達しかいないのでしょうか。そりゃそうよね。供託金300万円の壁が高すぎて、普通の人は、立候補もできない…胡散臭い人が、いつまでも引退しないで、税金を狙っているのではないのでしょうか。

☆なお、この記事は、アメブロに書いたものを、ココログの方にも見ていただきたいので転記しました。

 

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2015年12月 7日 (月)

狂いはどこからやって来るの? それともこれが本質?

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狂っている国…どうしたら、正気が取り戻せる? 

 この国の理不尽さと不本意さを的確に表現している記事を見つけた。江口正孝氏の記事。まさに、この国の大方を表している。でも、だとしたら、この国は、目茶目 茶。ぐちゃぐちゃ。迷路の中に沈んでいる最中だ。

 でも、とも すると、そういうDNAがあったのかもしれない。とにかく、悲しすぎて笑える。まったくマジックの国。行き場所をみずから塞いでいる。入り口だけの国、出口はないのか、自ら塞いでいるのか……原発事故後の福島と日本人は、全くこの通りだった。転載させていただく。

https://www.facebook.com/EzMasataka/posts/10153456828837701?

fref=nf

江崎 正孝

12月4日 

日本人は何もしないためなら何でもする

「何もしないためには何でもする」を、福一事故や放射能汚染に当てはめてみます。
汚染されてるとわかってる場所で、避難しない・させないためには・・・・・
汚染されてると認めない。
このくらいの汚染は問題ないと言う。
偉い人が言うのだから大丈夫と信じる。
笑っていれば大丈夫と信じる。
除染できると信じる。
基準値を殺人的な数値に上げてしまう。
子どもにバッジをつけさせてその場で過ごさせる。
汚染が出ている場所の食べ物を食べて応援する。
子どもに汚染地でマラソン大会させる。
子どもに汚染地で清掃活動させる。
子どもに汚染地で潮干狩りさせる。
汚染水が今なお漏れてる場所で漁業を再開する。
汚染がされてる食べ物でも「基準値内」といって出荷する。
汚染水が今なお漏れてる場所でサーフィンする。
息子娘・孫の避難を阻止する。
避難した娘息子を汚染された地へ帰還させようとする。
避難した娘息子に「親不孝者」となじる。
汚染瓦礫を全国に拡散する。
買わない者に対し風評被害となじる。
いまだ高汚染の避難区域を解除する。
アンダーコントロールと世界に嘘を発信する。
子供を汚染された地に修学旅行に行かせる。
東日本JRの駅を「福島」ポスターだらけにする

(転載おわり)

 「再臨界もないとは言えない。」と原子力規制庁も言っているのに、この国の人達は、すっかり、脳を放射能にやられてしまっているのか、原発事故後の4年と8ヶ月の実態は、先に転載した記事そのものだった。これ、客観的には、気違い的ではないのだろうか。そう…狂っている…いいえ、確信犯。

 腐っているこの国の中枢…みんな、見殺し…家畜以下。ひどすぎる。でも、これが、日の元の国の本質…か?

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(あとがき)

☆ブログ更新します。原発のニュース全くと言っていいほど、流れてきません。福島原発からデブリは、取り出せたのでしょうか。

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